英語科 伊藤和夫先生(故人)にきく
 −先生は昭和41年から駿台の教壇にお立ちになったわけですが、それから現在まで、例えば54年に共通一次試験が始まる。私大のレベルが上がってくる。駿台も規模が大きくなり、生徒増に伴って学力の幅が広がるなど大きな変化がありました。そんな中で、教材作りにはいろいろとご苦労があったと思いますが…。

【伊藤】共通一次はその副産物として、予備校の寡占化を促したということがある。共通一次によって、国立大がある共通のモノサシで計られることになった。そうなると、今度はそういうモノサシを持っていない予備校、全国で何十万枚かの答案を集めて、何点とったら東大は大丈夫、といったデータが出せない予備校は、マイナーな予備校ということになってしまう。

 こうして予備校の寡占化が進んだ。それに伴って、新しい問題が生じた。私たち教える者の立場から言うと、統一教材の問題です。

 つまり、予備校が小さくて−−駿台は1号館が発祥の地だけど最初は3教室。そのころは私はいないけどね。昭和29年に四谷校ができるまでは、全部で3教室。−−その時はまったく同じ先生が自分の教材を使って、午前も午後も夜も教える。だから夜通っても午前とまったく同じ授業が受けられた。

 しかし、規模が大きくなると、そういうことが不可能になってしまう。それまでは先生の数と同じか、少なくとも先生の数を2で割ったくらいの教材が現実にできていた。そして、A先生はA先生の教材で、B先生はB先生の教材で教える。相互に連絡があるわけではない。だから重複したり、逆に必要なことが落ちていたりしていても、それを調整することは誰もしなかった。

 そういう点の弱さに最初に気付いたのが数学科だった。中田(義元)さん、根岸(世雄)さんの二人が30年代から40年代前半に数学科の教材を全部統一した。それに解答も付けて。

 英語の場合は遅れていた。ある先生が自分の教材で教えるのだが、時間数が増えてこなしきれない。そこで自分の弟子を連れてきてやらせる。そういう形で40年代前半まで動いてきた。それが、学校がどんどん大きくなってくると、これではどうにもならない。英語科も統一教材を持たなければいけない。それに気が付いたのが鈴木(長十)先生。ただ、鈴木さんが教材を作るんではない。鈴木さんが方針を出してくれれば、そこは私がついていたから。こうして文法からスタートして、次々に統一教材を作っていった。

 統一教材を作るというのは、簡単なことではないんだね。教材に訳を付けるだけではダメで、それをどう教えてもらうか、教材の根本の意図その他、全部書かなくてはならない。英語の教師はめいめい自分の方法を持っていて、これでなければダメだと思いこんでいるんだから。

 一冊の教材を作るというのは、一冊の参考書を書くことなんだ。だから、あらかじめ参考書が書けるだけの体系がアタマの中になくてはできることではない。入試問題集をあっちから1題、こっちから1題といろいろに抜粋しただけの貼り合わせ教材ではどうしようもないのさ。

 いろいろ巡り合わせがあり、成り行きがあって、結局、英語科の教材は50年代前半から後半にかけて統一化が進んだ。あれが今から考えると、僕がやった仕事のひとつの頂点だった。

 他の科はいろいろ言うだろうけど、しかし客観的に「英語の駿台」と言われた。世間がそう言っていた。同時に、学生は英語科の教材を信用していた。あの教材だから授業に出る、誰が教えてもあの教材だから授業に出る、そういうふうな信頼関係が英語科と学生、英語科のカリキュラムと学生の間にあった時代が50年代後半からです。

 結局は品質管理をする。駿台にいる限り、全国どこへ行っても、まったく同じ教材で、同じ質の授業が受けられる。そうでなければ、駿台という名前があるだけで、一体性が何もないですからね。それが僕のやったこと。それはある程度成功したと思っている。
 −教材は必要に応じて手直しをしなければならないと思いますが…。

【伊藤】無論そう。やっぱりその時代に合わせて変えなくてはいけない。ただ、こういうこともあるね。3年以内の入試問題しか使わないなんていう予備校があるが、そんなのは愚かさを通り越している。つまり、入試問題は新しい英語が出るとは限らない、実際には。さすがに第2次大戦前の文章は少なくなったが。とにかく機械的に時代で区切ること自体無意味だし、同じ教材を繰り返し教えるから授業に良さが出るんだ。

 −教材も、良いものはずっと使われると…。

【伊藤】大体、試験問題も、良い問題は繰り返し繰り返し使われる。良い問題というのはそんなにないんだよ。それが試験問題全体の傾向と言っていいと思うんだけど、最近の試験問題は新聞とか雑誌なんかの文章を抜いてくる。そうすると、どうしても言ってることが雑なのね。部分的にここを訳せ、この単語の名詞形を書けなんていってる間は表面に出ないけど、全体を訳せとなると、全体を通じて一体何を言いたいのか、一貫性がないし、下手をすると矛盾しちゃうんだよね。雑な問題が最近増えている。

 教室で教えるには、雑な文章はダメなんだ。首尾一貫して、ちゃんと筋が通って、設問の形で聞くべきことはちゃんと聞いて。そういう問題ってのは、やっぱりそうはないんだ。

 −先生は参考書もたくさんお書きになっていますが…。

【伊藤】受験参考書というのは、息が長いんだ。どの科でもそうだが。英語というのは、言葉だから変わってるはずなんだが、けど、日常英語の表現の差なんて受験英語は関係ないんですね。駿台に来て30冊以上参考書を書いたが、それがほとんどまだ本屋に並んでいる。その点、幸運を感謝している。

 山崎貞という人がいた。この人が大正元年に出した英文解釈の本が、もちろんその間に手を加えているんだが、以来、半世紀以上にわたってまだ図書館じゃない、本屋にあるんだよ。

 僕は最初アルバイトと思って始めた予備校教師の仕事だったが、どこかで本気でやることになってからは、せっかくやるなら、やっぱり山崎貞を駆逐するくらいのことはやりたい。そうでなければ自分がこの分野に足を踏み入れた意味はないと思ったのは事実だね。

 昭和52年に『英文解釈教室』(研究社)を出して、これが山崎貞を駆逐した。そして、英文解釈の参考書は、一部に難しすぎるという声はあるんだけど、大体、ネコもシャクシも『英文解釈教室』ということで、この20年きてるんだ。あの本も今は多少落ち目だけど。それに代わって、最近の合格体験記なんか読むと、『英文解釈教室』の代わりに『ビジュアル英文解釈』(駿台文庫)がどっかと根っこのところにすわっている。『ビジュアル』はパートI、パートIIと3年がかりで書いたんだが。

 −参考書というのは受験生に浸透するのに何年もかかるんですね。

【伊藤】そうそう。だからその期間、本屋に置いておかないと、良い本でも消えてしまう。そういう意味で駿台で教えているということは大きいんだ。駿台文庫で出しているということも大きいけど、本屋にいつまでも置いてもらえるということが。

 今度、英語科の主任をやめ、教材の仕事もやめたので、50年代後半から60年代前半の教材をまとめたんだ。駿台の教材とはこういうもんだったということが、それを見てくれればわかる。そうしときたかったんだ。それが研究社の『テーマ別英文読解演習』と駿台文庫の『新・英文法頻出問題演習』だね。5年もたってみると、あの頃、生徒の信用を集めていた教材には一体どんな文章が載っていたのか。それを調べてみてもわかんないではかわいそうだものね。ボクの参考書は駿台の教材の記念碑だからね。ちゃんと碑を建てて、碑名まで書いてあるわけだ。

 −ところで最近の学生についてはどうお考えですか。

【伊藤】全体的にみて、良質の学生が減ったことは確かだね。ただ、それが日本全体で減ったのか、それとも、そういう良質の学生がもう予備校を経由しないで東大に入っちゃうのか。昔みたいに、東大に入るために10年頑張ったと、バカじゃないかと思うけど、そういうことが無意味なことが学生にも親にもわかってきたのは進歩だと思うよ。

 それとは別に、風俗の違い、習慣の違いもあるんだよね。昔だと、学生が缶ジュースを机にのせて教師の話を聞くなんてことはまずなかった。それが昭和60年くらいから現れて、最近ではそれが当たり前になっちゃってる。さすがにタバコを吸うのは当たり前ではないけどね。相変わらず。あれは風俗の違いだね。服装の違いと同じだと思うんだよ。駿台も社会の一部だから、当然、無関係じゃない。

 英語力ということから言うと、日本の学生の能力は低下したかもしれない。文法の基本概念がわかる子が減っちゃったというのは確かだね。まあ、教えないんだから仕方がないんだ。

 しかし、だからといって日本の英語教育が退化の一途をたどっているわけではない。「今日は」「さようなら」と物おじしないで外国人と接触できる子どもの数は、20年前と今では雲泥の差でしょう。それはやっぱり英語教育の成果なんだ。風俗、習慣の一環として、英語教育で中学、高校で強調することが変わったんだ。ボクの目からすれば教えないから知らないということは増えたけど、風船を押せばどこかが突出するようなもので、やっぱりどこか突出している今の子は、ボクが思いもかけないようなことを知っていると思いたいね。


 [注]
  本文は故伊藤和夫先生に平成8年にインタビューした折の記事です。
  伊藤和夫先生は平成9年1月21日逝去されました。