1.高校から幼稚園まで
駿台甲府高等学校
開校
 昭和54年2月6日付の読売新聞は「駿台甲府高等学校」の発足についてこう報じた。

 「進学予備校『駿台高等予備校』を経営する学校法人『駿河台学園』(山崎春之理事長、東京神田)が甲府市の私立高校と学校経営上の提携を結ぶことが、5日発表された。関係者の話によると『全国から優秀な生徒を募集して、東の灘高にする』という。
 駿台高等予備校と提携するのは甲府市塩部2-8-1、学校法人『甲府北星高校』(古屋重信理事長、生徒数約500人)で、さる3日、両者で協定書、覚書が交わされ来年4月から新発足する」

  甲府北星高校は地元の資産家が昭和31年、自動車工業高校として創設、翌年、山梨工業、同49年、甲府北星高校と改称、普通科、自動車科、工業デザイン科の3科を持ち、定員は約1000人。だが、当時、山梨県の私立高校は県立高校に進学できない者の受皿となっていたため、特色のない私立高校は経営が苦しく、同校も提携校を探していた。このため同校を駿台が引受け、ここで徹底した個性・適性・能力に応じた教育の場をつくることになった。

 昭和54年9月、校名を「駿台甲府高等学校」と改称、初年度普通部1年生用として、鉄筋4階建ての新校舎を建設、普通教室のほか、物理、化学、生物実験室、LL教室、音楽室、図書室、保健室、進路指導室、普通部教員室などを設けた。

 また、普通部は全国から生徒を募集するので、校舎から徒歩3分のところに鉄筋コンクリート3階建て、全個室、各室冷暖房完備の生徒寮「旭日寮」を建設した。
1期生の入学
 昭和55年4月、駿台甲府高等学校となって最初の募集は、普通部普通科が男子160人、工業部自動車科が男女120人、工業デザイン科が男女40人の定員とした。

 初年度、普通部は410人が受験して131人が入学、また工業部は312人が受験、180人が入学した。普通部の入学者は山梨県出身者の67人をはじめ、東京、長野、神奈川を中心として北海道から沖縄まで23都道府県にわたった。

 山梨県の高校入試は受験無風地帯と言われていたが、駿台甲府高等学校が開校したことで、総合選抜を行っていた甲府市内の県立4校で大量の入学辞退者が出るなど県内教育界に大きな波紋を呼んだ。

 開校に当たって学園長(理事長)山崎春之は次のように教育目標を述べている。

 「高校教育を実践するにあたって私自身の夢もあります。先代から受け継いだ“愛情教育”と“チャレンジング・スピリットの育成”を教育の柱として、生徒一人ひとりが、その目標を達成するために真の努力をする中で人間形成を図れるように、それぞれの個性・適性・能力に応じた教育と指導を行いたいと思います。そして、普通部は名実ともに有数の進学校にすることを目標にしたいと考えています」

 普通部の教育の特色は徹底した能力別クラス編成と駿台が蓄積したノウハウを存分に生かした進学指導体制であった。授業クラスは英語系列、数学系列に分け、英語、数学の能力に応じて一人が2種類のクラスに所属し、授業ごとに教室を移動した。学期ごとに成績によってクラス替えが行われ、成績が上がれば上のクラスに、下がれば下のクラスになるという厳しいものであった。

 駿台予備学校との連携を示すものとして予備学校の校内テストを課外の授業枠で実施し、学力の伸長度を予備学校の高校クラスの生徒と比較し、授業にフィードバックした。英数国は1年次から予備学校の教材を用いて演習授業を行い、通常の授業にも予備学校の有名講師が加わった。2年次からは夏期、冬期、春期の特別講習会を行い、予備学校の主任教授が駿台甲府高校生を直接指導する集中授業を行った。

 規定のカリキュラムは高校2年までに教科書をすべて終え、高校3年は大学受験演習に充てるというものであった。

 1期生の入学3ヵ月後の印象をある生徒は次のように書いている。

「4月に授業が始まってその速さに驚いた。最初、予習中心の授業ということがどういうものか分らなかった。5月に入って駿台テストと中間考査を受けて難しさに驚いた。半分も答えが書けなかった」

 また、保護者からは「3ヵ月を経過して子供も一段とたくましく成長した。先生方の熱意が大きなインパクトを与え、最近、家庭での子供の学習態度を見るとき、学校の持つ意欲と熱気が感じられる」という印象が寄せられた。
工業部の分離と今井、塩部両校舎の整備
 初年度、普通部は開校時に建設した新館にあり、工業部は旧来の北星高校時代の教室棟と実習棟を用いていた。しかし、両部の充実を図るため、校舎を分離しそれぞれの整備を行う計画を当初より持っていたが、昭和55年8月、甲府市上今井町に校地28000平方メートルを取得して工事にかかり、翌56年には今井校舎を完成した。

 今井校舎は教室棟(鉄骨造り4階建て)、実習棟(鉄骨造り3階建て)、食堂棟(鉄骨造り平屋建て)からなり、教室棟には普通教室16、製図実習室、実習棟には車両試験室、機関試験室、鋳造実習室、シャーシ実験室およびデザイン実験室を造った。広い校地には公式野球場並みの14000平方メートルの野球場のほか、サッカー場、一般運動場を造って体育面への特別の配慮をした。

 今井校舎完成に伴って、昭和56年4月より工業部は今井校舎に移転した。塩部の校舎には普通部の2期生175人を迎え、普通部は1年生と2年生合わせて306人となった。
 昭和57年4月に3期生を迎えた。この年の高校受験生は丙午(ひのえうま)に当たり、前年に比べ全国では約40万人減少していたため、普通部の募集にもその影響が心配されていたが、233人が入学し予想を上回る入学者となった。そのため、「旭日寮」の収容定員をオーバーしたため、急きょ、中巨摩郡敷島町に「敷島寮」を開設、普通部1年生の生徒寮として用いることにした。

 昭和57年11月学則変更を行い、普通部の入学定員を160人から270人とした。第2次ベビーブームを迎え、私学の収容定員増を図る環境が整ったためであった。
 昭和58年3月、普通部1年生の寮が甲府市山宮町の荒川沿いに完成し、「曙寮」と名付けた。これによって普通部生徒寮は1年生の曙寮(定員120人)と2年、3年の旭日寮(定員225人)の2つとなり、入寮希望者を全員受け入れられる態勢が整った。

 昭和57年から58年にかけて塩部校の校地整備を行い、昭和59年、塩部校舎内に新たな教室棟として南館(鉄骨4階建て、普通教室8)体育館、温水プール、生徒食堂(座席320席)を建設した。同時に塩部校舎のグランド施設も充実させ、テニスコート3面、バレーコート1面なども完成した。体育館の完成に伴い、外部施設を利用して行っていた入学式、卒業式も塩部校舎体育館で行うことができるようになった。同年4月16日には温水プールのオープニングを祝い、日本水泳連盟副会長(当時)古橋広之進氏の記念講演に続いて、模範泳法が披露された。

 昭和60年には普通部、工業部制を廃止し、塩部校舎の普通科、今井校舎の自動車科、美術デザイン科の2校舎3学科制となった。
1期生の卒業と大学進学結果の躍進
 昭和58年3月10日、第1回の卒業式を挙行、普通部第1期生131人が卒業した。1年間の意欲的な学習・受験指導が大学入試で東工大2人、一橋大1人、東北大3人、早稲田大8人、慶応大18人、国立大医学部4人などの成果を収めたが、東大の合格者は出なかった。

 しかし、翌年(2期生173人)は東大4人、早慶66人の合格者を出した。東大合格者の数は60年7人、61年8人と毎年増加し、ついに62年には10人と所期の目標の東大2ケタを達成した。

 大学進学結果の躍進で他県の公立高校からの学校訪問が増え、1年で10校以上を数える年もあった。また、新聞、雑誌、TV局からの取材も増えた。その切り口は主として「“予備校立”新設高校の躍進の秘訣」といったものである。

 東大10人を出した昭和62年4月の『駿台通信』では次のように進学結果を報告している。

「今年の現役生はもともと学力上位者が多くいたわけではない。昨年の卒業生が現役で進学しすぎてしまい、強い浪人もいなかった。そのため今年の入試は不安をもって迎えたが、フタを開けると早慶62人合格、さらに開校以来の悲願である東大2ケタを達成した。山梨県全体の東大合格者数も3年前の11人から24人と増えている。駿高の躍進が山梨県全体のレベルアップに大きな貢献をしているのである。最近、駿高の目覚ましい進学実績に注目した他県の学校、文教委員会からの訪問が相次いでいる。その度に躍進の秘訣をこう語っている。すなわち、単なる受験テクニックではない駿台予備学校の科学的な教授法の導入と平均年令30才そこそこの若い教師陣、それに生徒をひきつけて離さない熱気あふれる授業であると。しかし、現状は素晴らしいことばかりではない。今後の全国的な生徒数の減少、県立高校の再編成の構想、また、県外寮生の進学実績の不振など、生徒募集を絡めて一段の努力が必要である」
帰国子弟の受け入れ
 昭和59年11月に行った駿高入試模試において、県外受験者の質の向上を目指して県外進学塾の団体参加方式を設定して拡大策をとった。併願推薦制度を有効に活用したこともあって、受験者は前年の350人から999人と大幅な増加となった。翌60年には県外進学塾との連携は関東、関西、九州地区へと広がり、全国の有名進学塾の多くが団体参加をするようになった。

 また、海外からの受験希望も寄せられるようになったため、現地の日本人学校を会場にして試験が行えないか交渉、シンガポール、ジャカルタなどの主として東南アジアの日本人学校が参加したい意向を示した。駿河台学園の方針であった「国際化への貢献」という視点と県外入学者の質の向上という観点から海外帰国子弟募集を本格化させていった。

 昭和61年11月に駿高入試模試の海外日本人学校参加(7校103人)が始まり、同時に日本人学校での説明会を行った。その結果、翌62年220人、63年には海外参加18校受験者334人に拡大し、入学者も平成元年には21人となった。

 海外帰国子弟受け入れ校として指定(海外帰国子女教育振興財団AU群登録)を受け、帰国子弟枠入試制度の整備と海外保護者への情報誌「海外通信」の発行を始めた。また入学者のうち国語の学力の低い生徒には「海外生のための国語講座」などの補習授業も実施した。
コース再編
 1期生は3クラス(131人)であったが、2期生からはコース制をとり、理文コース3クラスと普通コース1クラスに分けた。普通コースは昭和58年より「英語コース」と名称を変更して英語のカリキュラムを充実させた。理文コースと英語コースの間に大きなカリキュラム差はないのに英語コースを希望する者が減少し、また英語コース合格の場合は入学を辞退する者が多かった。県外募集の拡大に伴って全体に入学者の質の均質化も見られ、理文・英語の2コース制の必要はなくなりつつあったが、同時に、今後の方針である「中等部の創設」、「女子の受け入れ」、「体育活動の充実(文武両道)」を視野に入れた新しいコース制の必要が生じてきた。

 昭和61年4月、7期生入学よりαβ・γの新しいコースに再編した。それぞれのコース指導目標は次のようなものであった。

[αβコース]
 1年次(難関大学を目指す基礎学力の充実)は教科間の均衡のとれた総合学力の向上を目指し、各科目の本質を学ぶ姿勢を堅持した教育を行い、難関に挑む進取の精神と基礎学力の充実を図る。
  2年次(理系・文系別に応用力学習)は1年次における基礎学力の充実のもとに、進学目標に応じて理系・文系別のコースに再編する。各コースは大学進学にとって最も効率的で有利なカリキュラムを採用する。
 3年次(進学志望に応じた大学受験対策)になると大学入試で要求される科目、内容は志望する大学・学部によって大きな違いがあるので、進学志望に合わせて必要科目に重点を置いたカリキュラムを採用、大学系統別のコース・クラス編成を行う。

[γコース]
 1、2年次(体育活動の充実と大学進学の両立)は高校生活を通して体育活動を充実させながら、大学進学を目指すことを目標としたコース。1年次は基礎学力の徹底・充実を図り、2年次には理系・文系に分かれた効率的なカリキュラムを採用する。
 3年次(進学志望に応じた大学受験対策)には普通科全コースを進学志望に応じた大学系統別のコース・クラスに再編する。
10周年と同窓会の発足
 平成元年10月14日、創立14周年の関連行事が同窓生1200人の出席を得て盛大に行われた。挨拶に立った学園長・山崎春之は、建学の精神と教育理念にふれ、「明日の目標に向かって、いまひたむきに努力すること、すなわち生徒諸君のチャレンジング・スピリットを最も大切なものとし、この精神を教職員が一丸となって支え、生徒の個性と能力を最大限に伸ばす指導」を指示、「現状に甘んじることなく、さらに大きな目標に向かって邁進しなければならない」と強調した。

 記念式典に引き続いて行われた記念講演では野球評論家・荒川博氏が、「プロ意識の育て方、鍛え方」というテーマで講演。“世界の王”を育てた体験から、人との出会いの大切さ、努力に勝るものはない、努力の中身が大事である、ことなど、熱っぽく語った。

 式典に先だって同窓会結成総会が開催され、同窓会長に柳田茂大氏(1期生)が選ばれ、駿台甲府高等学校普通科同窓会が誕生した。柳田会長は記念式典で挨拶し、「わが母校駿台甲府高等学校が県内随一の進学名門校としての地位を築き上げることができたことは、私たち卒業生の誇りである。これからも文武両道に秀でた名門校として、駿台甲府高校がさらに発展されるよう関係者皆様のさらなるご尽力をお願いしたい」と結んだ。
女子の受け入れと中等部設置
 創立10周年を終え、開校以来の念願であった中等部の設置と女子の受け入れの具体的な検討に入った。すでに生徒数の減少期を迎え始めており、県外入学者は平成元年に125人の過去最高となっていたが、今後は順次減少が予想された。山梨県内からの地元入学者の拡大と質の向上を図ることは5年先、10年先を考えると最も優先すべき事項であった。

 平成元年、中等部設置構想と女子の受け入れを検討したが、中等部設置は認可のための準備期間がかなり必要となるのに対して、女子の受け入れは学則変更などの必要はなく、受け入れ準備さえできれば募集が可能であった。それで、まず女子の受け入れから始めることとし、平成元年に女子トイレ・更衣室などの施設整備を行い、受け入れ方法を検討した上で、平成2年4月、普通科に女子46人を入学させた。
 女子の制服については今井校舎の美術デザイン科が男女共学で女子が多数おり、その制服が昭和62年に作られていたので、エンブレムを一部変更するだけでそれを用いた。

 普通科は創立以来10年にわたって男子校であったため、女子受け入れによる在校男子生徒への影響なども考慮し、差し当って男女別学方式として女子クラスを設け、2年次以降は一部選択授業などで男女の混合した授業も行うこととした。
 女子1期生は平成5年3月に卒業し、卒業生46人中、お茶の水女子大7人をはじめ国公立大に38人、私立大に44人が合格した。翌6年3月には女子2期生35人が卒業し、東大、一橋大、早稲田大、慶応大などの難関大学に多数合格者を出した。

 その後、女子の入学希望者も多数にのぼり、平成5年の高校入試より男女の格差を設けずに行い、入学後も女子クラスを置かずに、男女共学とした。

 平成2年に女子の受け入れを始めると同時に中等部設置準備を開始し、平成3年4月には各教科1人の参加をもって中等部準備室を設け、中高カリキュラムの調査・検討および他県での中高一貫校の研究などを行った。
 平成5年4月、懸案だった中等部が「駿台甲府中学校」として開校した。
文武両道
 昭和62年の東大合格者が10人のとき、現役の合格者は4人だった。また、国公立大合格者98人中、現役は47人にすぎなかった。

 しかし、平成5年に東大合格者は5人(現役4人)であったが、国公立大合格者は176人(現役117人)と過去最高となった。国公立大医学部合格者も過去最高の22人を数えた。
 翌6年には東大合格者が11人(現役9人)と過去最高を記録し、山梨県内でも東大11人は20年ぶりの記録となった。

 進学結果の躍進だけでなく、文化面、スポーツ面での活躍も目立ってきた。

[数学オリンピックの日本代表]
  平成5年7月に行われた国際数学オリンピックの世界大会(イスタンブール)で本校3年生の池田心君が日本代表として参加し、銅メダルを獲得した。その前年の数学オリンピック全国大会でも萩原啓君が成績優秀者(銅賞)に輝いている。

[文の甲子園で2年連続入賞]
  文芸春秋社が全国の高校生を対象に開催する作文選手権(文の甲子園)に、平成3年駿高チーム(3人)が準優勝し、個人でも2年の日野原優子さんが個人特別賞(2500人中の2人)に選ばれた。翌年も本校は敢闘賞に入選した。

[囲碁で全国準優勝]
  全国高校囲碁選手権で平成2年第3位、平成3年準優勝し、県大会では例年優勝している。また、将棋も県大会で優勝常連校である。

[ソフトテニス部全国大会制覇]
  平成5年3月に名古屋市で行われた全国高校選抜大会でソフトテニス部が全国優勝を果たした。また平成8年の山梨インターハイでも全国3位となった。

[水泳部インターハイ優勝]
  平成4年のインターハイでは水泳部の古屋明史君が200メートルバタフライで全国優勝し、また平成5年のジュニアオリンピックで千野隼君が200メートル個人メドレーで3位となった。

[県高校総体で総合準優勝]
  山梨県高校総合体育大会では平成4年より総合第3位を続け、平成7年にはついに体育科のある日川高校に迫り、準優勝となった。

[野球部の関東大会出場]
  昭和60年夏の全国高校野球大会県予選で決勝に進出したが惜しくも甲子園を逃した。昭和63年および平成5年には関東大会に出場した。
県外入学者の縮小と曙寮の閉寮
 昭和58年の曙寮開寮により普通科の生徒寮は1年生が曙寮、2、3年生が旭日寮として寮生指導の充実を図ってきたが、学習面、生活面ともに指導に難しい点が多かった。平成元年には帰国子弟の入学21人を含み126人の入寮生があった。その後全国的な生徒減少期に入ったが、平成4年までは100人前後の入寮生があった。しかし、平成5年に78人、同6年45人が入寮した時点で曙寮を閉寮として、1年から3年まですべての寮生を旭日寮1本にまとめた。

 県外からの入学者もかって首都圏と関西圏が中心であったが、平成6年以降は長野県からの入学が目立つようになった。

 平成8年4月には駿台甲府中学校から80人の内部進学が始まり、男女共学とあわせ県外入学者の縮小を補っている。
開かれたPTA活動
 普通科創設の昭和55年に普通科PTAが発足し、指導部、文化部、広報部の3部で活動を始めた。文化部は文化講演会を主催、広報部は年2回のPTA会報を発行、指導部は県外保護者向けに「甲斐路巡り」という親睦旅行を実施。堅実な諸活動を行って学校の教育活動を側面から援助した。 平成4年11月、高校3年生を対象に夜10時までの夜間特別学習会を始めたが、PTAの保護者が中心になって支援活動(夜食の配布など)が自発的に起こり、以降、夜間特別学習、夏期特別学習会などでも保護者の支援が行われている。

 平成6年9月には、学校の教育活動の補助となるよう、文化祭バザーがPTAの手で行われた。平成8年にはPTA保護者対象のオープン・スクール(文化講座)が開催されるようになった。
 また、研究紀要発行にもPTAが援助している。
研究紀要の発刊
 平成元年、研究紀要第1号が発刊され、その後、しばらく途絶えていたが、平成7年に研究紀要の定期発行が提案され、平成8年7月に研究紀要第2号が発刊された。高校の研究紀要としてはかなりレベルの高いものと県内外の教育関係者の評価を得た。今後、隔年発行が予定されており、教員の資質向上に資するものと期待されている。

 研究紀要発刊に寄せて、校長(当時)八田政季は教員の資質について次のように書いている。

 「その第1は人間を含む“自然”に対する限りない“愛”、とりわけ直接対象となる子ども一人ひとりへの無差別・絶対の愛である。第2の柱は、教師それぞれの専門的学識の深さ、高さである。教師には固定化された学識ではなく、変化し動いている学識が期待される。教師の真理追及のスパイラルに巻込まれながら子ども達は学ぶ楽しさ、厳しさを刻み込んでいく。“子弟同行”の必須条件は、教師が学ぶ姿勢を失わないことである。第3の資質は、レベルアップされた指導技術が習得されていなければならない。愛と学識に強く裏打ちされた濃密な“文化”が適切、巧妙な手法によって子ども達の心や頭脳を突き動かす場が学校なのだ」
情報化と新しいメディアの活用
 昭和59年の駿高入試模試から成績処理を校内のパソコンを用いて行っていたが、昭和61年には校内の成績処理、通知表の帳票まで校内パソコンで行うようになった。平成6年には校内に情報処理センターを設け、教務レベルのOA化を推進した。

 平成7年には駿台予備学校のコンピュータによる学習支援システム「CAI」を導入し、マッキントッシュLC630を48台備えたコンピュータ室を西館4階に開設し、生徒のCAI学習に提供した。平成9年からは正課内の生活技術で生徒へのコンピュータ教育にも使い始めた。

 また、駿台予備学校の通信衛星講座「サテネット21」が視聴できるように西館4階の特別教室を改造してAV教室を開設、平成7年より本格的に「サテネット21」による課外授業および季節講習会を始めた。

 平成8年にはインターネットにより大学情報の検索などを開始、進路指導に活用している。

 これらすべての施設・機器のほか、進路指導室、個別面談室(6部屋)をすべて西館4階に配置することで、このフロアーに進学と情報のセンターとしての機能を与え、新しい進学指導の拠点となるようにした。
美術デザイン科
 昭和60年、工業系であったデザイン科を募集停止し、新たに芸術系の学科である美術デザイン科を定員40人で設置した。年々高まってきた絵画系進学希望者のニーズに応えたものであった。

 その後、昭和61年に実習室を移転。さらに、平成4年10月、西館(第4実習棟)に教室、実習室を移転した。

 美術デザイン科の特徴として (1)美術系大学への進学を考えたカリキュラム (2)専門教科での2パート制やチームティーチングによるきめ細かな指導 (3)選択課題、自主課題により生徒の自主性の伸長 (4)3年生での、個々の進路に応じた指導 などが挙げられる。

 美術デザイン科になって10年、さまざまな実績が上がってきている。生徒の作品は年々レベルが向上し、各方面から作品の依頼を受けるようになった。毎年、各種展覧会に出品し、県高校芸術文化祭賞・望月春江賞などの最高賞をはじめ多くの入賞・入選を果たしている。また、進学実績も徐々に上がってきており、武蔵野美術大、多摩美術大、東京造形大などの美大、短大への進学者数が増えている。
駿台甲府高校通信教育部
 高度な情報化、国際化が進んだ日本においては価値観が多様化、細分化される時代になっており、学校教育も大きな変化を求められている。こうしたニーズに対応すべく、平成12年10月に、高校内に通信教育部を設置し、広域通信制高校を開校した。教育理念である「愛情教育」に基づいて、生徒一人ひとりの価値観を尊重し、手厚くサポートする通信制高校で、その特色としては、1.駿河台大学をはじめ、数多くの大学、短大、専門学校への指定校推薦制度がある 2.自然とふれあう研修所スクーリングで体験的プログラムが豊富 3.各種の資格試験が単位として認められている など、生徒個々の希望をかなえるようなきめ細やかな体制を敷いている。
創立25周年
 平成16年11月13日に、駿台甲府高校創立25周年の式典、祝賀会が甲府市内のアピオにて盛大に催された。創立以来の同窓生が多数出席し、創立者山崎春之学監はじめ教職員も感慨を新たにする一日であった。顧みれば、四半世紀のうちに、私学としてその特色を発揮し、山梨県下において文武両道の実を挙げる高等学校として、教育界に貢献してきたことは、学園として自負するところである。山崎学監は挨拶の中で、関係者への感謝を述べるとともに、在校生、卒業生に対して、永く母校に大いなる誇りと愛情を持ち、大きな視野で日本や世界をリードする人材として活躍することを祈念した。
中高新体制へ
 平成17年4月、塩部校舎(普通科)南館に、従前、学年別に分散されていた職員室を統一し、他校に類のない大職員室を設置した。また、塩部校舎の普通科だけでなく今井校舎の美術デザイン科、通信教育部、及び駿台甲府中学校の教職員に1人1台のPCを設置し、駿台甲府のイントラネット網を確立した。このことは、新校長山口博伸の「これからの学校は、いかに全体で結束していくことが出来るかに掛かっている」という考えのもと、授業並びに生徒に関する情報交換及び共有化を具現化するものであり、即座に全教職員が同一の対応・対策が図れるようにすることを目指している。
  また、視聴覚教室・コンピュータ教室をリニューアルしたほか、駿台予備学校の講義が甲府にいながら受講できるメディアエッジルームを開設するなど、授業環境の整備も順次進められており、さらなる躍進への一歩を踏み出した。